突然鳴った電子音に、瀬川蒼波(セガワアオハ)は目を醒ました。
目に最初に映ったのは、光を放っている蛍光灯。
そこから視線を落とすと、隣に廻ったままの扇風機。
扇風機が一晩中廻っていたと考えるのが普通である。
体はすっかり冷えていた。無理もない。蒼波はキャミソールを着たまま寝ていたのだ。
蒼波は風邪の前触れのような喉の痛さに気づく。
なんでこんな朝を迎えたのか昨日のことを回想してみた。
そういえばお風呂に入った記憶がない。
・・・そのまま寝てしまったようだ。

やけに動かしにくい体を起こして、蒼波は洗面所に向かった。
鏡にブスな女の顔が映った。
昨日綺麗に纏めた髪はグシャクジャ、頬には白く涙の跡が残っていた。
そしてぐったりした表情。蒼波は鏡を見て、ため息を漏らした。
今からいつもと同じように顔を洗うのに、蒼波は嫌悪感を抱いた。
だからと言って、顔を洗わないわけにもいかないが。
それでもやる気が出ないものだから、そのまま顔も洗わずボーっとしていると、後ろから聴き慣れた足音が近づいてきた。
それに気づいた蒼波は、急いで顔を洗い始めた。
「どけ。」
後ろから低い声がした。寝起きのせいか、いつもより声のトーンが落ちている。
蒼波はそんな声に構わず、洗面所を占拠していた。
シカトされた声の主は顔を顰めた。
声の主・・・神崎鷹杜(カンザキタカト)は、洗面所を使うのを諦め、台所へのろのろと歩いていった。
また「どけ」と言ったところで、蒼波がどかないことは予想できた。
しつこくせがんで蒼波と朝っぱらから喧嘩するのも、あまりいい気分ではない。
今の蒼波はとてつもなく機嫌が悪いだろう、と鷹杜は思った。
蒼波は寝起きは決まって、機嫌が良くない。
まぁでも、蒼波の機嫌を損なわされたさせた要因は・・・昨日の喧嘩だろう。
最近ではこの二人の間で、喧嘩になんて珍しくない。
近頃ほんの些細なことで喧嘩が勃発するようになった。
喧嘩が一段落すると、大体蒼波は不機嫌そうな顔をして、鷹杜の言葉を無視するようになる。
鷹杜も同じく、ほとんど何も話さなくなる。
一晩過ぎても、蒼波の機嫌は傾いたままなことが多い。

ちなみに鷹杜と蒼波の関係といえば、高校の頃からの恋人同士である。
今年二人は高校を卒業した後、就職をして同棲したのだ。
まだ結婚には至っていないが、そのうちする・・・予定だったらしい。
鷹杜はとある飲料会社で働いていた。蒼波はOLである。
家事は二人で分担をしている。それでも主にしているのは蒼波だった。
この二人・・・高校時代から同棲して間もないときまでは、とても仲良くしていたものだ。
高校ではこの二人は公式カップルだった。一部の先生でさえ知っているほどだった。
周りに持て囃されながらここまで来ていたものだから、二人も毎日有頂天だった。
これ以上の相手なんていない、なんてお互い思い込んだものだ。
それなのに今は、顔を合わせるだけでこんなに険悪ムードが立ち込める仲になってしまった。
こんなことになってしまった原因は勿論存在するのだが、どうしようもないことだった。
鷹杜は就職してから、とてつもなく忙しくなってしまったのだ。
勿論蒼波も社会人になってから、学生時代よりは忙しくなった。
この二人の違いは・・・休日である。
蒼波は休日を定期的に貰えているが、鷹杜は休日が不定期だった。
鷹杜もとりあえず休日は日曜なのだが、時に日曜は出勤、平日の一日を休みにされることがあった。
蒼波が休日にデートをしようと約束をしたのに、鷹杜が突然仕事が入った、
というオチがパターン化し、とうとう蒼波が怒ってしまったのだ。
その都度頬を膨らませる蒼波に、鷹杜はいつも謝っていた。
しかし次第に蒼波は、鷹杜が謝っても許してくれなくなった。
なにせ謝っても、何時になってもデートができないからである。
謝ってばかりでいつデートしてくれるの?!と蒼波は激怒するようになった。
鷹杜も蒼波が怒るのも無理はないと思い謝り続けてきたが、次第に嫌気が差してきた。
そしてとうとう鷹杜も、どうしようもないだろう、と憤慨するようになったのだ。
だが、これは決して鷹杜に非があるわけでもない。
それでも蒼波が怒ってしまうのも分かる。
どちらかに過失があるわけでもないので、どちらかが謝る必要があるとは思えない。
それでも責任を感じているのは鷹杜の方だった。
この喧嘩の発端は自分であるから、という見解があった。蒼波も鷹杜の見解を察していた。
なので鷹杜が蒼波に話しかけるが、蒼波が無視をする、というパターンが結構多い。
それでも喧嘩をするときは、両者とも譲り合うことは無いが。
だがここまで険悪になっても、どんなに口論が激しくなっても、
別居しようとか、嫌い、までは言わなかった。

台所で鷹杜がトーストを食べているところに、蒼波が来た。顔を洗い終わったようだ。
台所に来た蒼波は、無言で冷蔵庫へ歩いていった。
丁度鷹杜はトーストを食べ終わり、次は鷹杜が洗面所へ向かった。
その間二人は目を合わせることさえしなかった。
蒼波は鷹杜の椅子の向かいにある椅子に腰掛けると、ガラスのコップに牛乳を注いだ。
牛乳を一口飲むと、蒼波はコップをテーブルに置いた。
それからなんとなく、フウとため息をついた。
蒼波も朝ご飯を食べると、パジャマから着替えて髪を纏め、さっさと出勤していった。
蒼波の後姿を、静かに鷹杜が見送った。
蒼波は車の免許を持っていない。
だが勤め先までは徒歩で行ける距離なので、車を毎朝出す必要も無いだろう。
それでも徒歩は時間がかかるので、蒼波は鷹杜よりも早く家を出る。
それから鷹杜が戸締りなどをして、家を出ることになっている。


クーラーをきかせた台所で、蒼波と鷹杜が夕飯を食べていた。
「・・・ねぇ、鷹杜。」
珍しく蒼波から、話を切り出した。
自分から話しかけても冷たくする蒼波が自分から話し始めたので、鷹杜は少しほっとした。
「どうした?」
少し声のトーンを上げて応えた。
「8月17日って私の誕生日じゃん?日曜日だし何処か行こうよ。」
そう、8月17日は蒼波の誕生日なのだ。
「そうだな、久しぶりに一緒に何処か行こうか?」
「ホント!?やったv ケーキも食べたい!」
「じゃあケーキ屋にも寄っていこう。」
「うん! あと私行きたいとこあるじゃんね!」
今までの険悪ムードが嘘のようだ。
同居したばかりの蒼波に戻っている・・・そんな感じがした。
はしゃぐ蒼波を見るのは久しぶりだった。
そんな蒼波を見て、鷹杜は最近では家の中でも強張らせっぱなしの口元が、自然に緩んだ。
「あと買い物もね!それからケーキは苺がのったのがいいv」
蒼波の最近では全然開くことのなかった口が、今ではベラベラと動く。
そしてベラベラ喋る口は、「楽しみにしてるからねv」という台詞で閉められた。

そして一夜が過ぎた。
目覚まし時計がいつも通りに、喧しく鳴った。
鷹杜はずり落ちるようにベッドから降り、まず洗面所に向かってみた。
洗面所は蒼波に占領されていたが、蒼波は白いタオルで顔を拭いていた。
蒼波は鷹杜が近づくと、鷹杜に気が付いたようだ。
「鷹杜、おはよう〜」
白いタオルから、蒼波の声が聴こえた。
「おはよう。」
鷹杜も返した。蒼波が自分から挨拶するなんて久しぶりだった。
蒼波は顔を拭き終わると、そのタオルを首にかけて、鷹杜を見た。
鷹杜も蒼波を見つめていたから、蒼波が鷹杜を見た刹那、すぐ目が合った。
「うふふふv」
蒼波が笑った。
寝起きがとてつもなく不機嫌な蒼波にしては珍しい。
蒼波が変に笑うものだから、鷹杜も自然に笑えてしまった。
鷹杜の表情が緩んだのを見た蒼波はまた笑い、そのまま軽い足取りで台所へ向かった。
蒼波が挨拶してくれたり笑いかけてくれるものだから、鷹杜も気分が良くなってきた。
洗面所で鷹杜は顔を洗い、蒼波のように足取り良く台所へ行った。
蒼波と向かい合って座ると、蒼波と目が合った。
まだニコニコしている。

「いっしきまぁす!」
「いってらっしゃい。」
『いってらっしゃい』を最後まで聞いてから、蒼波は家を出て行った。
懐かしい言葉のやりとりだった。
それから鷹杜は支度を済ませ、鷹杜もまた家を出た。


鷹杜は出勤し、いつも通り仕事をしていた。
いつも通りに机に向かっていると、背後に人の気配を感じた。
そして後ろから声がした。
「神崎・・・ちょっといいかね。」
声を掛けたのは鷹杜の上司である。
椅子から立ち上がり、鷹杜は上司について歩いた。
その間鷹杜は、同じ年齢の同僚に「窓ガラス割ったか?」と冷やかされた。
鷹杜は「もう社会人なの!!」と苦笑を飛ばした。
勿論鷹杜が呼び出されたのは、ガラスを割ったからではない。
「・・・えっ!出張!?」
「頼むよ、他の社員は忙しくて出張できそうにないんだよ・・・。」
実は鷹杜は今まで、出張したことがない。
「それで、期間は・・・。」
「うーん・・・16日から30日までなんだけど。」
「そ、そんな・・・。」
蒼波の誕生日は、17日だ。
それでも17日だけ帰ればいいだろう。
「頼むよ〜。神崎ぐらいにしか頼めないんだよ、英検二級もってるでしょ?」
・・・『英検』!?
「あ、あの・・・出張先、ドコなんですか?」
「アメリカ・・・だけど。」
鷹杜の顔から血の気が引いた。
「でも英検持ってるからって、英語ができるってわけじゃあ・・・。」
高校時代に必死こいて二級を取るために勉強はしたものの、ペラペラ話せるまでではない。
それに最近英語を使っていない為、英語の感覚のようなものが抜けていた。
「持ってない人が行くよりはいいだろう。」
「いやでも、そんな・・・。」
「まぁとりあえず行ってもらうよ。」
「別の人に頼んでください!今回ばかりはダメです。」
「だめだよ。もう君が向かうって、相手側に言ってしまったんだ。」
「ええ・・・。」
頼むとか言いながら、上司もう勝手に決めていたらしい。
鷹杜の頭の中では、蒼波の激怒した顔が思い出されていた。
今度どんな風に怒るんだろう・・・。

そして・・・仕事が終わり、鷹杜はマイカーに乗って帰った。
今日は仕事に全然集中できなかった。
重い足取りで玄関に踏み込んだ。
「おかえり〜v」
何処からかそう聴こえ、続いてドタドタとスリッパの音が響いた。
「ただいま・・・。」
鷹杜ははしゃいでいる蒼波を声を聴くと、もっと気が沈んでしまった。
出張のことを話せば、また冷戦が始まることになる。
それでも直前から秘密にしても、怒りそうだ。
どっちにしろ出張のことが発覚したら、蒼波を怒らせることには変わりはない。
「鷹杜ぉ、どーしたの?」
いつの間にかエプロンをつけた蒼波が、鷹杜の目の前にいた。
「いや、ちょっと・・・。」
「ご飯できたから食べよー!」
「ああ・・・。」

クーラーをきかせた台所で、蒼波と鷹杜が夕飯を食べていた。
「ねぇ・・・鷹杜。元気無くない?」
しょげてる鷹杜に、蒼波が話しかけた。
先程まで蒼波は話すことに夢中になっていて、鷹杜が元気が無いことに気づかなかった。
「え・・・あ、その・・・。」
・・・ここで、話してしまおうか?
でも・・・今こんなに機嫌のいい蒼波を不機嫌にさせるのは嫌だ。
折角蒼波と元通り、仲良くなれたんだ。・・・今の幸せを手放したくない。
「なんでもないよ。」
作り笑顔を添えて、鷹杜は言った。
「そう?何かあったら話してね。」
蒼波はニッと笑った。
「ああ。でもなんでもないから。」
「ならいいけど。」
そう言うと、蒼波はまたパクパクとご飯を食べ始めた。


そして・・・15日。つまり、出張一日前。
鷹杜はこっそりと出張の準備をしていた。
蒼波はそんなことに、気づいていなかった。
そしていつも通り、鷹杜が仕事に帰ると、蒼波が玄関まで来て「おかえりーv」と言った。
こっそりと準備をしていた、蒼波の機嫌が損なわれていない・・・のだ。
つまり、鷹杜はまだ、出張のことを蒼波に言っていなかったのだ。
というか、言えなかったのだ。
今まで出張のことを言う機会が無かったわけではなかったのだが。
台所に二人で行き、席について夕食を食べた。
出張は明日・・・鷹杜は覚悟をしていた。
「なぁ、蒼波・・・。」
覚悟をしたにしても、出張のことを口にするのは気が引けた。
「なに?」
蒼波は食べるのを止め、顔を上げた。
真っ向から蒼波の顔を見ると・・・もっと気が引けた。
だけどいくらなんでも、黙って出張に行くのは流石にやばいと思った。
もう・・・しょうがない。
「出張に行くことになった。」
単刀直入。
「へぇ、出張は初めてだね。何処に行くの?」
蒼波の表情は崩れていない。崩れていくのは・・・これからだ。
「アメリカなんだけど・・・。」
「ええ!すごいね!鷹杜パス持ってる?」
「もう作ってきたよ。外国は初めてなんだ。」
「へぇ〜。それで期間は?」
「・・・・・・・・・・・。」
やっぱり、戸惑う。
言葉を詰まらせた鷹杜に、蒼波は首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、その・・・。」
・・・言わなきゃ。
もう鷹杜は、崖っぷちに立たされていた。
もう言うしかなかった。
「明日から・・・22日まで、なんだけど・・・。」
「えっ、明日から・・・って・・・。」
次は蒼波が言葉を詰まらせた。
鷹杜は蒼波の目が見れなかった。
まず蒼波は、「明日から」のことに驚いたようだ。
そして、鷹杜が一番恐れたことに気が付いた・・・ようだ・・・。
「・・・22日まで?」
「ああ・・・。」
「じゃあ・・・17日もだよね!?」
蒼波はどんな表情をしているんだろう。
鷹杜は蒼波の顔も目も見るのが怖くて、下ばかり見ていた。
「・・・ああ・・・。」
きっと蒼波は怒りに満ちた目で、俺を見ている。・・・鷹杜はそう思った。
しかし蒼波は、うんともすんとも言わない。
沈黙が重い。
沈黙が今まで以上に重い。
鷹杜は自分からこの沈黙を破ることができなかった。
蒼波から切り出して欲しい。なんでもいい。
蒼波の怒る声でも、頬を叩くはり手の音でもいいから・・・。
ガタッ。
何かの音に反射的に鷹杜が顔を上げた。
蒼波は立ち上がっていた。先程の音は、椅子の音だった。
鷹杜は蒼波の顔を見ようとしたが、見る前に蒼波は後ろを向いてしまった。
「蒼波・・・。」
「鷹杜の嘘つき・・・!!」
小さな声で、蒼波は言った。
小さな声でも、鷹杜にはよく聴こえた。
小さな声でも、蒼波の怒りが込められていていた。
「ご、ごめ・・・。!!」
鷹杜が謝罪の言葉を言い切る前に、蒼波は走り去ってしまった。
「蒼波!!」
蒼波を追おうとして鷹杜は立ち上がり、蒼波に続いて台所を出ようとした。
蒼波の立っていたところに、砕けた雫が落ちていた。

蒼波は蒼波の部屋に篭っていた。
無論ドアを開けてくれる気配など無い。
「蒼波ごめん・・・!」
蒼波の部屋のドアに向かって鷹杜が謝った。
「・・・・・。」
蒼波は何も言わない。勿論蒼波には鷹杜の声は聴こえている。
ただ鷹杜も、普通に謝ったところで蒼波が反応を見せないことは、大体予想していた。
今回なんて特に、蒼波はすごく期待していたんだ・・・。
何を言っても無駄なことは承知だったが、鷹杜は少しでも許してもらえるように努めてみた。
「出張から帰ってきたら、デートしような?好きなところに何処でも連れて行って・・・」
「バカ!!いつだってそうじゃない!!同じことばっかり言ってるじゃん!!」
蒼波の声は、半分怒鳴っているが鼻声になっている。
鷹杜は反論できなかった。本当のこと以外なんでもないことを口にされて、鷹杜は何も言えなかった。
蒼波の言うとおり、鷹杜同じことばかり言っていた。いつだってそうだった。・・・バカだった。
「鷹杜なんて嫌い!!出張に行ったまま帰って来なくていい!!」
「あ、蒼波・・・。」
今まで何度も怒らせたが、蒼波がここまで言ったことはなかった。

蝉が喧しく鳴く朝。16日。
今日は鷹杜の、出張初日。空港は遠いので、蒼波よりも先に家を出る。
それでも鷹杜が起きた時には、蒼波も起きていた。
出張の支度をして、鷹杜は玄関まで歩いていった。
台所で蒼波は朝食を摂っている。
台所に届く声で、鷹杜は「行ってきます。」と言った。
返事は無かった。


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